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開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

「茄子」が良かった

映画「ミクロコスモス」(監督:クロード・ナリドサニー、マリー・プレンヌー)みる。
映画「デリカテッセン」(監督:ジャン=ピエール・ジュネ、マルク・キャロ)みる。
映画「茄子アンダルシアの夏」(監督:高坂希太郎)みる。
小説一冊、漫画三冊読む。
あと大友克洋の短編集「ハイウェイスター」(1979)を読み返したが、最後のページに川本三郎氏が記していることに興味を覚える。一応、メモ。

おそらく大友克洋にとっては「全体」も「中心」もとうに失われているから、ひとつひとつの出来事・物語のうしろに「意味」を与えて順序だて整理することはできないのだ。

大友克洋の絵は奥行きとは無縁である。ただ表層があるだけ。彼は表層を自在にすべっていく。(中略)なんら奥行きのない、のっぺりとした表層だけが大友克洋に見える世界なのである。そして「全体」とか「中心」を失ってあいまいな現実を日々生きている私(たち)にとってはこの一点で「大友克洋はわれらの同時代人」なのである。

ところでなんとなくだけど、読んだ小説をネット上に晒す気にならない。なんだか自分の内側(何だそれ)を覗かれる気がするからか。だとしたら、映画や音楽はなぜ晒せるのか。映画や小説といった分類自体になぜこだわるのか。うーん。