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開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

隈研吾『負ける建築』

建築は、大きい。存在感があり威圧感がある。今日、目の敵にされる巨大な建築も、かつてはその「大きさ」こそが美点であり「大きさ」が求められてきた。私有、象徴…それらの欲望が「強い」建築を生み出したのだという。高さを競う超高層ビルはその好例だ。今までの建築界はこのように「強い」ことを建築観として発展してきた。しかし著者はこのような「強い」建築に対して、これからは「負ける建築」であると説く。9・11は高いことが脆いことであることを示し、オウム真理教の粗末なバラックは、かつて荘厳な空間を生み出した宗教建築が今や建築に期待していないことを示した。
「象徴にも、視覚にも依存せず、私有という欲望にも依存しない」建築とは何か。それらの欲望からいかにしたら自由になれるか。「負ける建築」にはそんな気持ちが込められているのだそうだ。これからの建築とは?そんな著者の声が聞こえてくる。
本書の視点は様々であり、建築家・安藤忠雄とブランド、視覚的な美の終焉、公共建築への市民参加のいかがわしさなどが続けざまに論じられるが、結局は「大きさをどう処理するか。大きくなる世界をどうマネージするか」という一つの問題を中心としている。
ところで先日、著書と同名の展覧会〈「負ける建築」展〉を訪れた。一人暮らしの学生のワンルーム程度の狭い会場に、再生紙や建築現場の土などで形成されたブロックが積まれているだけの展示であるが、ここに建築家である著者の「負ける建築」の具体的な解答が示されていると思った。しかしこれらの展示に対して、それでも依然として充分に「強い」建築であり、建築の強さが隠蔽されるのではないかという批判があるだろう。恐らく著者自身も自覚しているのではないだろうか。