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開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

デザインを学ぶ

<デザインを「学ぶ」>ということについて、石山修武氏の「世田谷村日記」の十二月十日の記述が大変心に残った。デザインは学ぶものじゃないよ、なんて誰もが軽く言うが、石山氏の言葉に重みがあるのは現在の建築界の状況を踏まえた語りだからだ。引用し記録する。

彼等は学ぼうとする。それ故に教えれば皆同じようになってゆく。
(略)教える方法はどうしてもアブストラクトな性格を帯びざるを得ない。で、そうする。設計製図は又、高度な水準になればなる程に全人格的な性格をも帯びてくる。
 それ故に、教えれば教える程に、学生の設計製図は皆同じようなものになってゆく。
 学生ばかりではない。最近の若い建築家達の仕事が皆同じような類型のものに収斂している現象の正体は、実にそういうところにあるのではないか。
(略)
しかし、この状態からは本格的な新しさは出ない。*1

私が思うに、しばらくこの状況が変わることは無い。それは私の世代が「若い建築家達」と呼ばれるようになるだろう十数年後も変わらないんじゃないかとさえ、コンペ作品を見ていて思ったりする。確かに、うまいんだけど。

今日の建築のあり方を見ると、建築は機械ではなく、ただ情報である、とふと思うことがある。情報の価値はその差異性にあるという。例えば、藤森照信さんのつくる一風変わった建築が今日、評価されるのはそういうことではないか。逆に、いわゆる今日の建築のあり方は、情報を共有することで価値を見出していこうという動きであるようにも見える。価値観を共有するなかでの知的な解答を生産し続けているような感じか。もしそういうことだとすると、総オタク化を目指しているということか?そうなれば、あとは自沈するだけ、かもしれない。