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開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

「誰も知らない」を思い出しながら(ネタバレあり)

是枝裕和監督の『誰も知らない』について、思い出したことなどをつらつらと。

「誰も知らない」というタイトルにぎくりとする。もうひと昔以上前に起こった、巣鴨での「子供置き去り事件」を是枝監督がなぜ今になって取り上げたのか。それだけである問題を提起しているようにも思えた。顔を合わせながらも、誰も事件には気付かなかった様子は、今もなお続く様々な含みのある問題として取り上げられよう。インターネット、ミクシィ、顔の見えない他者とのやりとり、あるいは上っ面だけの付き合い、ネットワーク。

「誰も知らない」は子供の視点から描かれる映画である。子供たちの表情はどれもすばらしく、とれたての魚の刺身みたいに素材を十分に生かしきっているように思った。だからこそ、淡々と子供たちの日常を描いているのに成功している。それでじゅうぶんなのであり、余計な演出はかえってうるさくなる。
しかし、そうだからこそ、是枝監督のいくつかの意図的な演出が大げさにうつったのも確かだ。例えば、ラストシーンで明が飛行機を見上げるシーンや、挿入歌。これらひとつひとつ自体は単体としてみるとじゅうぶんに美しいものだが、それが無くても映画はじゅうぶんに成立しそうだ。だからそれらが余計な演出だとみるむきもあるだろう。
しかし、このことを私は余計だとは思わない。それらは是枝監督の、あくまでも映画として人に観られることを前提としたつくり方ではないかと思うからだ。ドキュメンタリーではなく「映画」監督としての心遣いがそっと表れる瞬間でさえある。特に、ラストで韓英恵が明にそっと手を差し伸べる瞬間。主人公たちに手を差し伸べてあげたい――映画を見ている人びとのそんな言葉や行動を、彼女は代弁しているといえるのではないかとも思った。だから、是枝監督のその人間くささを私はむしろ微笑ましく感じた。他にも、
「はい」
「いいよ」
「なんで?カラオケ一緒に歌っただけだよ」
というカラオケボックス前でのシーンも、ともすれば観客(=我々)自身が明に対してとってもおかしくない行動をあえて演じることで、そしてそのことに対し明が拒絶する姿を見せることで、何かをそれとなく視聴者に気付かせることを意図しているように思える。

監督にある意思があるならば、そのような「ドキュメンタリーとは異なるところ」を追っていくとそれとなく見えてきそうだ。