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開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

建築家は敷地の外で戦えるのか

今月の頭の話だが、8日に「建築家フォーラム(@INAX銀座)」というのに行ってきた。
「現代建築は『美しい景観』をつくれるか 〜思想と手法から『個の近代』を超える視座を探る」というテーマが気になったからである。形式的には、川向正人さんが司会進行で、芦原太郎さん、新居千秋さん、横河健さんがそれぞれテーマに沿ったプレゼンテーションを行い、川向さんとの質疑応答で終了という感じ。
テーマの中に「景観」とあるが、私が聞いた感じでは景観というよりそのキーワードを「社会」とでも置き換えてもいいかもしれないと思った。「社会」というのはここでは「敷地の外」と言い換えられるかもしれない。景観と銘打っているが、実際のところ「建築家は敷地の外にどのようにアプローチできるのか?」という類の問いが裏テーマだったように思う。うまい表現が見つからないけど。
個人的に、プレゼンテーションが冴えていたと感じたのは新居千秋さんだ。新居さんは「建築家は今の世代の『後』に責任がある」とした上で、篠原修さんらとの共同による富山の景観条例の作成といった大きい枠組みの仕事から、「循環」「共生」「海」の視点から生まれた「日本海学」における教科書の作成まで行っていて(ここでは教育の重要性を説いた)、建築家の幅広い職能を生かした取り組みが興味深かった(もちろん、プレゼンテーションの妙技に踊らされていた可能性は否めないが)。また、新居さんの「B級デザインのレベルを上げなければ」と主張や、(どういうプロジェクトか忘れたけど)総研ではなく「建築家」が上に立ってプロジェクトを指揮するといった仕組みから提案したコンペ案など、建築家という枠組みを超えるというような「意思」に共感できた。
私の関心は、いわば「建築家は敷地の外で仕事ができるのか、またどうすればできるのか」といったところにある。私は建築家という職業(職種)の能力を高く見ているところがあるのだろう。法や制度に限らない様々な問題や枠組みや現象に対し、それを実際に空間として、モノとして「まとめる」建築家だからこそ持ちえる能力に。
こんなことを思うのは、各自治体や不動産業者の主導による、空間や景観やまちづくりやらといったもののデザインがなんだかダサかったりダメだったりするところにあるのだと思う。誤解の無いようにいえばデザインとは「見た目」の問題だけではない(表出されるデザインを見るとその裏のダメさ加減が分かるのだ、というといいすぎか。実際よく分かってないし)。
しかし、それでもプレゼンテーションやその後の質疑応答を聞いていて愕然とし再認識したのは、それでもやはり建築家が「敷地の外」に対してアプローチを行うのは困難である、ということである。その理由の詳細はうまく表現できないのだけど、新居さんにしても横河さんにしても、それでもやはり「上」、「システム」が問題なんだ、というところに行き着いてしまうのだ、と受け取れてしまった。取り上げる書籍も『犬と鬼』(A・カー)や『人間を幸福にしない日本というシステム』(K・V・ウォルフレン)といった類の日本社会や政治の構造的問題を指摘するもので、もちろん建築家の皆さんの取り組みは尊敬に値するのだけど、邪推すれば「上がダメなんだから仕方ないじゃん」とでも言っているようにさえとれてしまった。プレゼンを聞いているときには建築家の社会への「越境」は成功しているように思ったけど、聞けば聞くほど、私にはそれが失敗しているように思えてきたのである。
そして、そしてそのようなやりとりを聞いて考えているうちに、悪い言い方になるけどあえていえば、建築家が「公共」(ここでいう「敷地の外」のこと)というキーワードを掲げるのは、自らの建築自体を正当化する、あるいはその仕事をとるための巧言に過ぎないのでは、とまで思われてしまった。だからか最近は、敷地の中でせいいっぱい格闘している建築家にこそあらためて敬意を感じもする(このようなことを思ったのは、フォーラムとは別に影響を受けたモノのせいでもある。そのことはまた改めて書こう)。
それでも建築家の「越境」が重要だと思う私のスタンスに変わりはないのだが、あるいは、建築家としてではなく、むしろ建築のトレーニングを積んだ人が「上」や「システム」の側に行くべきだろうかとも思う。

12月8日の手塚さんの講演にもできれば行こうと思います。