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開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

大きい模型と「もの」感

ハードディスクの中のものを出してみる。

先月の話だが、武蔵工業大学建築学科の卒業設計を見に行った。この大学はとにかく卒業設計の模型が大きい。
 
ゆうに20メートルは長さがあるような模型もあり、ずらりと並んだ模型を眺めながら、大変な作業と時間とお金がかかっただろうとその制作の過程を想像して感心したり逆にぞっとしたりした。そして、模型が大きいのはやはりそれが評価に関わってくるからだろうと講評などをみていて思った。
唐突だが、建築は、また建築模型は「もの」なんだと思った。「そんなの当たり前じゃないか」と思われるだろうが、近年の建築を取り巻く状況をみていると一概にそうは言えない状況があると思っていて、建築はその物質性うんぬんよりもメディア的、情報的性質が強いような気がしてならなかったのだ。建築はメディアとか情報とかでいかようにも左右されるという解釈もあってそれはそれで正論だと思っていた。しかし、それでも一義的に「建築は情報だ!」とか「建築はメディアだ!」と言い切れないところがあるのは、建築がもの(物)であるという、最後の一線がそこにあるからなんだとあらためて思ったわけだ。
そして、この卒業設計で学生が模型に執着するのも、うまくいえないがそんな「もの」感を大事にしている文脈が教育の中にあるからなんだろうと考えた。その模型と対峙した瞬間に感じる肌触りのようなものを。
ある建築や空間を訪れたり見たりしたときに、おおおっといった高揚感や感動をおぼえるという体験は何も私に限ったことではないはずで、そんな空気を感じる瞬間には、建築家の薀蓄や知的操作や建築の批評性云々などどこかに飛んでいってしまっているのではないだろうか。そして、ここでみた卒業設計の場合でも同じようなことなんじゃないかと思ったわけである。講評する側がその場にいて見てまわるという評価のやり方の中では、建築のコンペに見るような「ひざを叩くようなうまさ」とか「知的面白さ」、あるいは学生の問題意識やリサーチよりも、その模型やパネルのある空間に立ったその瞬間にみる、物体の持つ何らかの力こそが重要である、と。
とはいえ見る側はプロなので、ただ模型が大きかったり緻密だったりすればいいというものではないだろうが、模型が小さいがゆえに良さが伝わりにくかったり、あるいは失ってしまっているものがあるように感じた提案がいくつかみられ、残念だと思ったのも事実である。だから逆に、現在とこれからの傾向として、もの、で思考停止してしまうようになる恐れもあるかもしれない。また、学生の問題意識とか提案の現実性とかいった建築の「教育」としてのあり方に関する側面が「大きさ」の前に矮小化されてしまいかねない危険性を感じたということも併記しておこう。