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mezzanine

開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

「美しい景観」と日本

日本橋の首都高移設/撤去の是非をきっかけに景観論争が起こっている(た)が、以前ここでもその流れに乗っかって少し思うところを書いた(http://d.hatena.ne.jp/ida-10/20060116)。私は景観に関する違和感について『<経済を活性化させる策>として捉えているように思われてならない点にある』と申し上げた。とはいえ「経済」という言葉は便宜的に用いたようなもので、日本橋への不信感は「なんかインチキくさいぞ」という一言につきる。事業を行うにあたり、知識人にだまされようとしているんじゃないかという感じがしたわけだ。
景観に関する取り組みは全国各地で行われているが、これらの取り組み/事業がなにやら妙なイデオロギーを帯びているような気がしてならないのは私だけだろうか。これらの取り組み自体を非難するつもりは無いが、変に踊らされているような気がするのは私だけだろうか。
ともあれ、そんなことについて、日本橋の一件を機に考えたことを散文的に吐き出してみたいと思う。

日本橋事業の旗振り役「美しい景観を創る会」は、看板などのあふれる景観を「醜い景観」としてホームページ上で批判した。これについて五十嵐太郎氏は、美の判断を簡単に割り切る姿勢を「景観狩り」と非難する。
しかし、なぜ今、このような景観論争が巻き起こったのだろうか。これまでも、看板・サインの溢れる景観を悪とする考え方は、我々―少なくともここ数年の建築界で共有していたと思われるのに、という気がする。
故・芦原義信さんの『街並みの美学』(岩波書店)は名著だと思うのだが、今になってパラパラと読み返してみると、おやと思う点がある。例えば、書中で批判されているそで看板は悪いものなのだろうか。もちろん、そで看板や広告にまみれた日本独特の景観は一方で汚ならしさを感じるし、今まではそう感じてきた。だから今日の景観に関する様々な動きについても一応の理解はできる(日本橋の例をひとくくりにするのは違うとも思うけど)。しかしもう一方で、看板が一切無くてスッキリしたらいいというわけではなく、それはそれで気持ちが悪いだろうと想像する。自身の卑近な例を挙げれば、一切が計画されて作られた街よりも、ゴミゴミした、ふらりと立ち寄ってちょっと一杯、みたいなところが残っているのが好きだったりする。
とはいえ、この点については相対的な価値判断があるものだから、こんな私の好みを語ったところで仕方が無いともいえるのだが、それでも最近、そんな風景(景観?街並み?)が日本らしくていいじゃないかと思ったりする。
つまり、私が危惧するのは、「美しい景観」というのがすなわち「西欧の景観」という漠然とした考え方に繋がっているように思われる点にあるんだと思う。「日本の街並みが汚いから良くしよう」というのは分かる。しかし、実際は西欧の街並みをモデルとして追従する感じが、私の感じる不安の内実なんだろう。
このような事業(再開発等)は企業として大きな¥のチャンスであるわけだけど、東京に限っていえば、東京の都市の地位向上という目的もあるだろう。東アジアにおける国際的な東京の地位の低下が危惧される中で、発展と魅力を創造していくことは必要であり、そこに不動産業者の果たす役割は大きい。また、観光地としての東京の魅力作りも、「観光立国」を打ち出した今日、重要な課題である。
ここで問題になってくるのは、良好な環境におかれた機能的で床面積のあるインテリジェントビル、という条件と、国際社会の中での「日本の魅力」の創出、という条件のすりあわせということなのだろうか。

そういう流れで、話を無理やり観光に持っていってみる。
小泉首相の発言を参照してみる。
「昔からの名所の上に高速道路が走っており、景観に良くない。あの景観が復活すれば世界的な名所になるのではないか」
果たしてそうだろうか。海外から日本を訪れる旅行者はそんなものを求めてはいないんじゃないか。例えば、外国旅行ガイドブックの定番"Lonely Planet"の集大成である"BLUE LIST. 06-07"(Lonely Planet Publications)をパラパラとめくってみると、海外(欧米・豪)からの旅行者は日本の魅力として、酒、築地市場、温泉…などを求めていることが分かる。これらをオリエンタルなもの、「日本らしさ」として求めていると解釈することができよう。むしろ、海外の建築家が語る「カオティックな東京の魅力」という観点からすれば、首都高の走る景観は十分魅力的なようにも思える。
この首相の発言には多分、世代的な意識のズレもあるように思う。それこそ、「美」の話になると意見を押し付けても仕方が無いような気もするが。

これは個人的な考えでしかないのを先にことわっておくが、日本の歴史を振り返れば、このような景観問題は、日本独自の西洋化の過程にまで遡るように思う。夏目漱石は講演『現代日本の開化』でこう言う。
「西洋の開化は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である」
そうなんだろうと思う。そして、建築や街並み(それこそ景観)にだって、明治期の「和魂洋才」を見て取れるんじゃないかと思うわけだ。加えて、戦後復興だとか、高度経済成長期の「物」優先の開発(合理主義・機械論)もあるだろう。
すなわち、近代建築のシステムに乗っかってしまった日本の建築・街並みは、その生成のシステム自体に大きな矛盾を抱えている。看板を有する日本の歴史の上に、西洋の近代建築のデザインが流入しているわけだ。とはいえ、「内発的な開化」をすれば問題が無かったのか、とifをとなえても仕方が無いのだけど。
とここまで書いてみてハタと考えるのだが、メタ的な視点に立てば、ある意味この景観論争はナショナリズム的な文脈に乗っかっているんじゃないかと思えてくる。ひょっとすると私が言っていることは、かつて帝冠様式が生まれたときのような「日本」論争みたいなものなのかもしれない、と考えたりもする。

自分の中のモヤモヤがまとまりそうもないのだがとりあえず吐き出してみた。
なんとなくまとめ(追記)

  • 「美しい景観」という名のもとに行われる事業による景観狩りに対して私は勝手に焦っている。
  • それは、マネー、東京の都市の地位向上、観光客増加等の目的のために重要なことだ。
  • しかし、こと「観光」ということになると、かえって日本らしさを失っているんじゃないか。
  • そういうところに事業の胡散臭さを感じる私。
  • 「醜い景観」は日本の外発的な変化、西洋化によるところではないか。