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mezzanine

開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

森山邸/西沢立衛

もう昨年末の話だが、たにお氏と森山邸(設計:西沢立衛)を訪れた。

東京都のとある住宅地に建つこの集合住宅は、敷地の中にボリュームが分散し、それぞれが庭によって分け隔てられている。
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ここを訪れると同時に、これって住めるの?!みたいな感覚をおぼえ、建築を見ながら、私だったら住みたくないなあ、と思ったのも事実だ。
この建築で注目したのは、窓が大きくて、(これはたまたまだろうが)さらに住んでいる方がその窓のカーテンを開け放して生活しているという点で、いわばプライバシーをさらけ出して住まわれているところである。
私事で恐縮だが、私が住んでいる部屋はカーテンを開けてしまえば向かいから丸見えになってしまう。知らない人から見られるのは嫌だ、というのは当たり前の感覚だろうが、そうした状況から私はカーテンを閉めっぱなしている。私が森山邸に住んだとしたら、やはりカーテンを閉め、大きな窓の意味を犠牲にしながら住むことになることが想像される。
しかし、友人のytによると、彼が「”mixiのコミュニティ”の現前化」というように、森山邸はどうやら知り合っているものどうしの集合であるらしい。なるほどそうだとすれば、こうした環境が導けそうである。私もカーテンを開けた生活が送れそうな気がする。
集合住宅という建築のタイプは、今日のいわゆる(「普通」の)集合住宅―アパートやマンションを想起されるといいが、近隣関係との危ういバランスのうえに立脚している。騒がないでください、ペット不可です、等、これらのある意味「縛られた上での生活」は、知らない人と壁を隔てて住んでいれば当然の帰結ともいえる。
だから、こうしたものが日本の都市部の一般的な集合住宅だとすれば、森山邸はその対極にある集合住宅のタイプであるといえるように思う。
それは、新しい集合住宅でありながら、かつて見られたであろう住宅の集合として自然発生的に表れた「ご近所コミュニティ」のようなものが計画的に挿入されたような感覚ですらある。それは今日の「住む」ということの流動化や隣人の「他人」化といった背景、そしてそうした事情による「管理化された集合住宅」のアンチテーゼといえそうだ。分散したボリュームにより、そのボリュームの間にあいまいに設けられた外部空間も、東京の京島のような下町に見られる路地空間のような「地」になり得る、とは言い過ぎだろうか。
いってしまえば、建築の計画というのは既に存在している生活から導かれるものというより、そこで期待される環境、例えば住まい方とか家族像とかを期待している面があることは否めないだろう。森山邸は、「集まって住む」ということと切り離せない、プライバシーやコミュニティといった古くから議論される概念について再考をせまる建築だと思った。

*1:出典:私の建築手法 西沢立衛「自作について」、東西アスファルト事業協同組合http://www.tozai-as.or.jp/