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開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

東北への旅―青森

会社が終わり、夜行バスに間に合うギリギリの時間まで仕事をして東京駅へ。駅前ではところどころで夜行バスが出発を待っている。私は空港も駅も好きだが、東京駅の夜行バス乗り場もまた別な意味で好きな場所のひとつだ。日本の駅や空港、あるいはバスターミナルといった空間は、どこの地方でも同じ表情を見せるコンビニのような均一性をみせているように思えるが、東京駅の夜行バス乗り場は、バスを待つ集団がある雰囲気をかもし出し、東京の中でも特殊な空間を浮かび上がらせているように思える。人が場所の印象を形作っているというか。独特な感じがするのはたぶん「地方」の匂いが強い感じがするからで、なんだか懐かしさをおぼえるのだ。かつて東北から上京してきた人が集まったのであろうかつての上野駅を想像したり、あるいは、仕事を求めてきた中国の地方の人々でごった返す上海駅を思い出す。

前置きが長くなったが、そういうわけで青森と岩手に一人旅。駅のトイレで着替えてスーツもカバンも駅のロッカーに預け、下着とデジカメと身の周りのものだけ持って乗り込んだバス。疲れのせいですぐに眠りにつき、目覚めたらそこは青森。
青森に足を踏み入れるのは三度目なのだけど、今回のとりあえずの目的は「青森県立美術館」。建築学生の頃、青木淳さんの考え方やつくる建築にはいろいろと刺激を受けたが、どうしてもよく分からなかったのがこの美術館だった。図面を見ても文章を読んでも模型を見てもなんだかとらえどころの無い建築だったので、これは実物を見るしかないと思った。

美術館は青森駅からバスで20分くらい。比較的中心市街地から近いところにあり、三内丸山遺跡に隣接する。

青森県立美術館は、ホワイトキューブの白い空間と、版築(ハンチク)や三和土(タタキ)による「土」の空間による展示室から成る構成。コンペ時の「凹凸の断面」という発想から着地点こそ遠くなったが、青木さんの創作・設計における葛藤がみられるように思えた。(詳細はまた後ほど)
作品では、この美術館のウリであるシャガールの「アレコ」の背景画がとても迫力があって良かった。シャガールは今までなんとなく好きではなかったが、展示室にパラパラと置かれた椅子に座ってゆっくり眺めるのが気持ちいい。
また、青森というと棟方志功寺山修司ゆかりの地であることは有名だが、奈良美智も青森(弘前)出身であることを知った。奈良さんの「ソウルハウス」やあるいは一連の活動―展示空間を自らつくるという取り組みは、美術館って必要なのか、という、現代美術の美術館という形式に関する問題提起でもある。企画展「工藤甲人展」も幻想的で動物や昆虫がいっぱいいて好み。


美術館を後にし、三内丸山遺跡へ。美術館とを繋ぐシャトルバスが出ているが、近い距離なので歩く。遺跡の建物や土器を見ていて、岡本太郎や、あるいは藤森照信の語る縄文時代の魅力が身近に感じられるように思った。
しかしなぜ青森なんだろう、というのが最後まで気になった。日本には縄文時代があって、三内丸山遺跡にその様子をみてとることができる、といわれてもピンとこないのは、四国で生まれ育った私からは地理的にとても遠い話であるように思えたからだ。たまたま青森で発見され、発掘されたからだ、といわれるとそれまでなのだが。
だからか、三内丸山遺跡で発掘された縄文土器などは青森の芸術であり文化だ、ととらえてもいいように思えた。縄文土器にみるような芸術が、工藤甲人棟方志功寺山修司や、あるいはねぶたとかひな壇を模した山車なんかに脈々と受け継がれている、と暴力的な見方をしても悪くないなと思えた。彼らの芸術表現が、弥生土器や、また「わびさび」といったいわゆる日本の芸術文化にひとくくりにはできないような暴力性、荒々しさ、奇想をみせるからだ。

妄想が過ぎた。八戸で見た、三社大祭に使われる山車。巨大なひな壇である。寺山修司の『田園に死す』という映画でひな壇が川を流れてくるという衝撃的なシーンがあったが、あれは青森の固有性だったんだな、と思った。