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開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

東北への旅―盛岡

青森、八戸を経て盛岡へ。

私事で恐縮だが、小学生と中学生のときに流行っていた「バーコードバトラー」の全国大会に出たことがある。東京で行われる全国大会では、地方予選を勝ち抜いた少年が集まり全国一を決めるが、大会前日のホテルでの懇親会や、誰かの部屋に集まっての雑談やゲーム、情報交換が大会と同じくらい楽しかったのを覚えている。同じ背景を持つ様々な地方から出てきた人が集まって話すのは、方言とか文化の違いがあからさまになって、その発見が少年の私にとって刺激的だった。
そんな全国大会の中で出会った、盛岡から出場していたUくんとは中学校の頃に文通、というかバーコードバトラーの情報交換をしていた。その頃、生まれ育った愛媛・松山が大渇水にみまわれたとき(なんせダムの貯水率がマイナスになったのだ)、彼がペットボトルのミネラルウォーター*1を箱に詰めて送ってくれた思い出があったりと、岩手は特別な感慨がある土地でもある。
Uくんとは全国大会以来会っていないのだが、私と同じように東京の大学に進学したらしい。今、彼がどうしているのか、それは分からない。

また前置きが長くなったが、そんな背景があるせいか、あらためて訪れた盛岡は好きな街になった。反論はあるだろうが、中心市街地空洞化が問題になっている昨今においても、ある程度の活気をなんとか維持しているように感じ、そうした土地に降り立ったときの形容しがたい期待を感じられる街だったからだろう。残念ながら、青森の中心市街地からはそうした期待を感じられなかっただけに。
そういう期待を感じさせるアイテムのひとつとして、建築もある役割を演じているように思う。旅先で訪れたいくつかを取り上げてみたい。


青森でなんとなく訪れた、ピラミッド型の建物「アスパム青森県観光物産館)」は、そこから眺める青森湾の景色はとてもよかったのだけど、その形態とボリュームそれだけからも、象徴をなんとかつくらなければ、といった地方の悲壮を感じさせられる感じがした。

辰野金吾と岩手出身の葛西万司(かさい・まんじ)による「旧盛岡銀行本店(岩手銀行中ノ橋支店、1911年)」。これも上述の建物と同じように、ある意味「象徴」であり、あったわけだが、かつて盛岡の実業家が興し、(金融恐慌を経て一度つぶれたわけだが)現在も重要文化財でありながら現役であるという、ある美しさを持つ。いわゆる辰野式のレンガと石による表現も美しい。

時期を同じくしてそのすぐ近くに竣工した、ロマネスク風の「旧第九十銀行(設計:横濱勉、1910年)」を互いにライバル視したといったことによる競争原理もはたらいたのだろう。こちらは現在「もりおか啄木・賢治青春館」という石川啄木宮沢賢治の歴史を紹介する記念館として使われている。写真では分かりにくいが、屋根の意匠があまり見られない形式だ。
また、ゆうに300を超える、明治以来の建物のガイドブックが岩手の人の手でつくられていることも驚きの一つだった*2。こうしたガイドブックによる格付けが市民の手によって行われていることは、政治的な意図が少ないぶん、ある共感をもって受け入れられそうで、建物の保存とかいったことに対して有効であるような気がした。そうして建物をうまく利用することができれば美しいものだが。
そのガイドブックを片手に盛岡をぶらぶら歩き、その道すがら、古くから暮らす人々に建物や盛岡の歴史を教えてくださったことも旅先でのいい思い出となった。

加えて印象的だったのは、盛岡で麺類のお店が多かったことだ。盛岡冷麺、わんこそば、じゃじゃ麺という「盛岡三大麺」もさることながら、ラーメン屋も多く見られた。

盛岡の中心部にある「白龍(パイロン)」でじゃじゃ麺を食べる。若者や仕事の後のサラリーマンで狭い店内がごった返してるのもいい感じだ。後で知ったのだが、ここはじゃじゃ麺発祥の地であるらしい*3。きし麺のような麺の上に乗ったきゅうりと味噌をかきまぜて食べる。うまい!というほどでもないが、庶民の味というか、なんとなくクセになりそうな味だ。食べた後、テーブルの上の生たまごを皿に割り、おねがいします、と渡すと「ちいたんたん」という玉子スープをつくってくれる。これで合わせて500円なのは旅先の財布にとって嬉しいものだ。

*1:多分、岩手の「龍泉洞の水」

*2:『ぶらり盛岡』。河北版、河南版の二冊があり、それぞれ100円で売っている。

*3:ジャージャー麺とはなんとなく違うもので、恐らくジャージャー麺が岩手風にアレンジされたもののような気がする。