ボスポラス大橋のたもと、ブルーノ・タウト自邸
トルコの話に戻る。
イスタンブルで訪れてみたいと思っていたのが、ブルーノ・タウト(1880‐1938) が晩年を過ごしたといわれる彼の自邸である。ブルーノ・タウトは1933年に祖国ドイツを追われ日本を訪れる。そして日本の文化、建築に触れ、桂をはじめその再評価に大きな影響を与えたことは誰もが知るところだ。この日本滞在は1933年からの3年間、そして、亡くなるまでの2年間をトルコで過ごしている。
日本滞在中は日記を含めて多くの著作を残しているが、トルコに関してはほとんど存在しないそうだ。逆に建築については、日本に建てられたものは少なく、トルコには多く存在するという。不安定な時代に来日し、建築活動ができるような状況ではなかったということだろう。しかし作ることができなかったからこそ、タウトを内面的な思索に向かわせたのかもしれない。逆に、トルコが第二次世界大戦に中立であったことは、日本からトルコに移ったタウトの設計活動を後押ししたことだろう。
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さて、自邸である。「ボスポラス大橋のたもとにある」と何かで読んだことがあったので、あても無くボスポラス大橋を目指した。海峡を目の前にしてすぐになだらかな丘がそびえていて、恐らくこの上だな…と思い訪れると、辺りはちょっとした高級住宅地のようだ。アプローチを贅沢に取っている敷地があったので守衛に話してみたが、英語が通じず門前払いとなった。後で振り返るとここがタウト邸なのだが、今も誰かが住んでいるようだった。
諦めて丘の下から上を眺めていると、あっという間に見つかった。
ちょっと角度を変えるとこんな感じ。
丘の下から小さく見えただけなので、大した感想も無い。八角形というのはなんとも奇妙だが、モスクの円形の幾何学の影響かもしれないな、などとてきとうなことを考えた。この点については幾つか興味深いものがあったので、引用し紹介したい。
日本建築において八角円堂とは死者を祀る霊廟の形式である。タウトがこのことを知っていたかどうかを証明することはできないが、滞在中にそのことを知る機会はあったと思われる。*1
そしてタウトはトルコで亡くなる。
亡くなりました夫が、あれほど愛し、尊敬しておりました日本、また夫の生涯を最も豊かにしてくれました日本、その日本を識る上に、色々ご親切な手引きをして下さったお友達の皆様に、只今夫に代わりまして御礼を申し上げます。[……]
夫はもはや、この感謝の意を、口ずからお伝えすることはできませんが、この思いはちょうどトルコにおいて着手したばかりの新しい大きな建築*2の上に現れていると確信いたします、それに現れております建築の技術は、夫の以前のものに比べますと、まことにあらわな日本の影響を示しておりまして、――それはトルコと日本――ヨーロッパとアジアとの統合体とも申すものでございます。(エリカ・タウト「追憶」より)*3