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開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

藤森建築とインドについて(1)―秋野不矩美術館

掛川から一路、浜松の秋野不矩美術館(設計:藤森照信+内田祥士、1997年)を目指す。


浜松市に合併された旧・天竜の町外れの丘の上にある、秋野不矩の作品を展示した美術館。スレートで葺いた屋根、RC壁の上塗りの土壁や焼杉板などの材料や仕上げはこれまでの藤森さんの建築に類似したものが見られるが、特に長野・茅野市の神長官守矢史料館によく似た表情をしている。守矢史料館が家だとすればこの建築は城、といったところだろうか。仕上げによる表情だけではなく、分節したボリュームを角度を振って組み合わせる手法も藤森さんの設計の特徴のひとつといいたくなってくる。

入り口で靴を脱いで、籐ござや大理石の床の上で秋野不矩の作品を眺める。秋野不矩は旧・天竜市で生まれた日本画家。50代半ばに足を踏み入れたインドに惹かれ、インドを題材に絵を描いてきた。インドの風景や人などが描かれた絵に、この藤森さんの建築はよく似合う。以前、藤森さんの建築がインドっぽい、ということについて少し書いたが(参考)、美術館の建設にあたり、秋野不矩さんも藤森建築にインドを感じた、みたいなことをネット上で拾ったので紹介。

平成3年にインドの民家をスケッチした建物があります。翌年に不矩はこの民家そっくりの建物に日本で出会うことになります。
それは長野・茅野にある、諏訪大社の祭祀を代々司ってきた、神長官守矢家の資料館でした。泥壁に黒い板、そして石の屋根。まさにインドの古い民家のようでした。
建築家は藤森照信、その建物は建築家として初めて手掛けた作品でした。不矩は美術館の設計を彼に委ねようと即決します。数奇な運命で画家と建築家が引き寄せられ、裸の美術館建築が始まるのでした。(美の巨人たち*1

インドと日本の建築というとどうしても伊東忠太が思い出されるのだが、伊東忠太築地本願寺に代表されるようないわゆるインドっぽさは、ドームやアーチといったイスラム建築に基づくムガル様式の印象が大きいように思う。インドの建築といっても様式的にみてもいろいろなものがあり、時代にも地域によっても様々に異なるのでここで紹介しきれないが、大雑把な言い方をすれば、藤森さんは伊東忠太の取り残してきたインドっぽさをここで消化してきたのかなとも思う。北インドとその周辺や、南西部ケーララ州の木造建築は世界にも類を見ないような変てこなものがいっぱいで個人的に好きなんだけど、とりわけケーララの建築は明治頃に日本でも建てられた擬洋風やコロニアル風、植民地建築といった建築にも類似しているように思え、18世紀〜19世紀あるいは明治期の建築を追究してきた藤森さんがこうした建築に似た(ように思える)ものを建てることがあっても不思議ではないな、と一人で勝手に納得。

それにしても気分がふにゃふにゃするような、いい感じになる空間であった。