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開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

鹿児島の近代建築群

鹿児島に行ってみると数多くの近代建築が残っていて驚いた。
鹿児島の市街地は薩英戦争、西南戦争、太平洋戦争と幾度も打撃を受けているため、近代建築もさほど残っていないだろうと思っていた。しかし訪れてみると、確かに城下町の面影は残っていないものの、数多くの建築が残っている。これは多くの西洋館が建設された横浜、長崎、神戸といった開港地に劣らない質と量があるように思う。
試しにグーグルマップに落としてみると、鹿児島中心市街地には昭和初期を中心とした建築、東部の磯地区には江戸末期〜明治にかけての建築がそれぞれ残っているのがみてとれる。
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鹿児島市の近代建築を、東部の磯地区と鹿児島の中心部とに分けてみてみたい。
鹿児島・磯地区の近代建築
島津氏の磯庭園(仙厳園)のある磯地区は、「集成館事業*1として日本初の近代洋式工場群が建設されたところである。

  • 尚古集成館(1865年)


日本で初めてアーチを採用した石造洋風建築で、元は機械工場。これが建てられたのが江戸末期というのだからすごい。石積みの精度も高い。

ただ、なんとなく見たことの無いデザインがちりばめられていることを奇妙に思った。その理由は藤森照信さんの有名な新書の中にあったので紹介したい。

まず壁からみると、建物の隅に奇妙な出っ張りが作られ、下に向かってゆるやかなカーブを見せるが、おそらくヨーロッパで壁の補強のため付けられるバットレス−控壁−を意識して意味も分からぬまま作り、城の石垣の縄だるみのカーブで仕上げたものだろう。土台も一風変わっていて、洋式のデザインには例のないカマボコ状に作られているが、これは日本の伝統の亀腹に近い。壁に開いた窓の作りも変っていて、上端が扁平アーチとも水平ともつかない曲線を描き、ガラス窓は一見すると洋風の上ゲ下ゲ窓だが、実はハメ殺しになっていて上りも下りもしない。*2

…云々。蘭書から独学で手がけ、見よう見まねで作ったというのが藤森さんの論である。
機械工場だったこの建築も現在は博物館として集成館事業や薩摩の歴史などを展示している。*3

  • 磯くわはら館(旧芹ヶ野島津家金山鉱業事業所、1904年)

  • 磯工芸館(旧島津家吉野殖林所、1909年)



尚古集成館のすぐ隣にあるのがこれらの二つの建築。それぞれ島津家に関連する建物で、鹿児島の別のところから移築してきたもの。前者はフレンチレストラン、後者は隣接する工場でつくられる薩摩切子を販売している。

  • 異人館(旧鹿児島紡績所技師館、1867年)


尚古集成館から少し歩いたところにあるのがこれ。外人技師の宿舎として建てられた後、西南戦争の際には仮病院として使われたり、鶴丸城本丸跡に移され学校や教官室として使われたりして、再び現在の地に戻ってきた建築なんだそう。
4面全てにガラスのベランダが取り付いているのは日本国内でも珍しいと思うが、これまた江戸末期の建築であり、日本のコロニアル建築の最初期のものといえるだろう。

これらの建築のある磯地区は、島津氏の磯庭園(仙厳園)と近代建築群が観光のためにも使われていて、建築を巡ると鹿児島の歴史や文化なども抑えられる。すぐ近くに海があり、向かい側に桜島が見えるロケーションもいい。

鹿児島・中心市街地の近代建築
鹿児島市内は自転車でざざっと駆け抜けただけなので、気になった建築を簡単に紹介したい。やはり戦災のためか、RC造など空襲に耐えられた建築が残っているように思われた。


交差点の角地に建つ。すぐ裏側には県立博物館考古資料館(1883年)がある。


コリント式オーダーの層がアーチ窓のある層を支える構成。塔屋が微妙にセットバックしている。

  • 山形屋(1916年−1999年復元)


「やまかたや」と読むのだそう。鹿児島を代表する百貨店で、1916年に建てられたものの、一時は普通のビルとなった。1999年に再び過去の外観に復元されたそうで、いわばレプリカだが、街中に突然現れる姿は威厳があってかっこいい。


窓にイスラム風の尖頭アーチがみられるなど、どの国のものなのか分からないような感じ。どっしりとした外観がなんとなく鹿児島にあうような気がする。

  • 大津倉庫(1918年)


屋久島に向かうフェリー乗り場の向かい側にあった倉庫群。改装され、店舗やギャラリーとして利用されている。

*1:wikipedia:集成館事業

*2:藤森照信『日本の近代建築(上)―幕末・明治篇―』岩波新書、pp.66-67

*3:尚古集成館 http://www.shuseikan.jp/