屋根の空間、屋根の可能性−隈研吾「根津美術館」
日本・東洋の古美術を収蔵・展示する根津美術館。和風を思わせる渋い外観。
庭園より本館を望む。20,000坪の庭園側には瓦屋根による表情をみせる。
3年半の閉館期間を経た東京・青山の根津美術館が、10月7日に新たな装いとなって開館した。
この新・根津美術館の建築設計を行ったのは隈研吾(隈研吾建築都市設計事務所)。90年代以降、日本の各地で設計活動を行い、いまや世界の各地に活動範囲を広げ、日本の建築界を牽引している建築家である。
隈は90年代、建築のオブジェクト性を否定し(=反オブジェクト)、そして「負ける」というレトリックを用いて活動を展開してきた。威圧的で、自己中心的で、ものものしい建築の否定。それは例えば「亀老山展望台」で建築を地中に消し去り、「石の美術館」では石積みの壁をルーバーという手法で軽やかに表現してみせた。
そのような隈の建築の手法を、新しい根津美術館からも見てとることができる。隈の建築を見た人の中には、アプローチの軒下の空間に立った瞬間、「GREAT (BAMBOO) WALL」や「那珂川町馬頭広重美術館」を想起する人も多いのではないだろうか。
しかしここ数年の作品において、これまであまり見られなかった建築言語が隈の建築において積極的に用いられているのが散見されるようになったように思う。それが「切妻屋根」である。切妻屋根とは屋根の頂部から両側に傾斜がかかった、本を広げたような形式の屋根のことで、根津美術館においてもこの切妻屋根が用いられている。
切妻屋根を用いた隈の近作としては「呉市音戸市民センター」が挙げられるだろう。また、昨年から今年にかけて実施された「浅草文化観光センター設計案コンペ」(最優秀作品)では、切妻屋根をもつ平屋のボリュームを積層させている。
出展:広報たいとう 平成21年(2009)1月20日(No.981)号
ここ100年くらいの建築の歴史を振り返ると、インターナショナル・スタイルは切妻屋根という形式を否定し、平坦なフラットルーフを生産し続けた。かつてル・コルビュジエが提唱した近代建築の五原則のひとつ「屋上庭園」も、屋上(屋根)が平坦であってこそのものだろうし、「自由な平面」も屋根による制約が無いからこそ成立するのだろう。
現代建築はそうしたルールにいまだに縛られ続けているのだが、近代建築史を概観すると、この屋根の復権を図る動きが何度か訪れている。1930年代にみられる帝冠様式ではコンクリートの箱の上に瓦屋根が載せられ、1970年代から見られるようになったポストモダン建築では、ポストモダン建築の代表作といえる「母の家(ロバート・ヴェンチューリ)」や「AT&Tビル(フィリップ・ジョンソン)」がそうであるように、建築の頂に切妻屋根が載せられるものが登場した*1。これら帝冠様式やポストモダン建築における「切妻屋根」は、ナショナリズムや様式性の象徴・記号として、いわば装飾として用いられてきたといえるだろう。
では、現在の「屋根」とは何か。それは再び記号として回帰し、機能しているように思われる。特に切妻屋根を伴う家型のアイコンは、建築家にとって戦略的に用いられているようだ。
しかし、現代の切妻屋根がこれまでのものと異なる点のひとつとして、「空間」に焦点があてられていることが挙げられるように思う。隈の根津美術館もその例として挙げられるだろう*2。受付を抜けると広がるホールの空間は、切妻屋根の下に広がる空間をそのまま表したような設えである。そして2階の展示室では、(美術館としては珍しいと思われるが)部屋の天井に切妻屋根の傾斜がはっきりと見て取れる。2階のラウンジからは屋根の傾斜の下に庭園の緑が広がり、言うまでも無く、軒下の空間はエントランスへのアプローチとして効果的に用いられている。
水平ではなく、傾斜を伴う空間。それを形作るものとしての屋根の可能性。隈の建築において、地場の自然素材や建材を用いながら表された地域性のようなものは、これまで「表層」として語られてきた側面があるが、それが空間に昇華されるような感覚をおぼえる。
このような傾向は、根津美術館や浅草文化観光センターでのコンペ案がそうであるように(と個人的には思うのだが)、グローバル化する/した世界の中での「日本らしさ」のようなものに接続してくるように思っている。それがかつての帝冠様式といかに異なってくるのかというと、「空間」ということになるのだろうか*3。
- 参考