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開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

手塚貴晴氏の書き込み

2001年に「みんなの建築」という建築学生向けのBBSに松之山「森の学校」コンペに関する話題が書き込まれていて、そこに「手塚貴晴本人」という名前で書き込みがある(本人だといって間違いないだろう)。学生のコメントにレスしたもので、内容は「普通であること」から、建築のプログラム、都市まで。当時学部生だった私は強く衝撃を受けた。今読み返しても面白い。部分的に引用、メモ。ついでに改行。

「普通であること」或いは「非凡である事」は現象にしか過ぎません。
私は「普通であること」に興味が無いと同様に「非凡である事」にも全く興味がないのです。
この種のものさしで建築を評価する事に私は異を唱えます。
「どの建築が今の流行に合っているか」という最も悲しい議論同様、この種の批評は実態がないのです。
これは建築の本質とは全く関係ない議論です。
同様に「商業主義」という言葉が放つ強烈イデオロギー臭も冷静な評価基準には馴染みません。
「非凡」と「商業主義」の間には論理的関連性が見受けれられません。
「作家性」に関する一連の議論も同様です。そもそも「作家性」は悪ではない。
ルイスカーンやフランク・ロイド・ライトは作家性の固まりですね。
建築家の評価はブロードレンジでなされるべきです。
例えば私はロジャースの論理性を信奉する一方で、高崎正治氏の彫塑建築も尊敬します。
建築の価値判断は一つではないのです。(略)
「普通であること」或いは「非凡である事」ということは、揺れ動く時代潮流の中に生れた陽炎に過ぎません。
(略)
建物のプログラムは住民や専門家の様々な意見を吸収した上で成立する遠大な仕事です。
だからこそ北川フラム氏や浜野安宏氏のような職能が必要なのだと思います。(略)
建築家がプログラム作りに関わることは大切ですが、建築家だけでは絶対にできない仕事なのです。
(略)
現代の「普通」といわれている通説が「日本の守るべき最後のライン」を破壊してしまったところに現代日本の都市問題があるのです。
私は建築家が作品を作るという行為を都市の破壊と直結するのは短絡であると思います。
都市の中で建築は様々な顔を見せていて良いのです。(略)
”経済主義”を悪と決め付けるのも間違いです。
ロンドンやパリの美しい街並みの殆どは、利益を追い求める19世紀からデベロッパーの功績なのです。

ちゃんと文脈から理解したい方は以下から探してみてください。
みんなの建築 http://www.minken.net/arch/post4/