mezzanine

開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

『アララトの聖母』を観てエチオピアの建築を思い出す

アララトの聖母』(監督:アトム・エゴヤン)を観た。アララトとはノアの箱船が到達したとされるアルメニア高原の最高峰、アララト山のことである。この映画はアルメニアの画家アーシル・ゴーキーの絵画を題材に、母と子、そして「アルメニア人大虐殺を描いた映画」を交えて描かれている。第一次大戦下、オスマン帝国領内にて行われたとされる「アルメニア人大虐殺」による死亡者数の推計は少なくて20万人、多くて200万ともいわれるが*1、歴史的経緯のせいかトルコ政府が認めないためか、日本でもあまり知られていない*2

アララトの聖母 [DVD]

アララトの聖母 [DVD]

この映画はストーリーや人間関係、さらに時間軸までもが複雑に交錯するためストーリーが掴みづらい。しかもアルメニア人大虐殺については「映画の中で制作された映画」の中で描かれるため、例えば『シンドラーのリスト』のような悲劇の再現としては描かれない。だから「シンドラー」のような物語を期待すれば肩透かしを食わせられるかもしれない。「アルメニア人大虐殺」は物語の根幹をなす重要な題材だが、それ自体がテーマではないのだろう。描かれるのは、虐殺を描く映画の撮影の過程で悲劇を知り、変わってゆく現代のアルメニア系カナダ人の主人公や、その周囲の人々であり、エゴヤン監督がいうように、「拒絶された歴史」、その拒絶によりどんな結果が生じたか、ということなのだろう。

私事だが、院生のときにエチオピアを訪れ、アジスアベバアルメニア人居住区について虱潰しに住宅の調査を行ったことがある。アジスアベバアルメニア人居住区があることにまず驚いたが、文献によればエチオピアのアルメニア人はオスマン帝国(トルコ)からの圧力から逃れてきた人たちであり、アルメニア・エチオピア共に古くからの正教を信仰する国だったことを理由としているそうだ。世界中に離散したアルメニア人のごく一部はエチオピアにも暮らしている。
結局、エチオピアの住宅におけるアルメニア人の影響というのははっきりとは分からなかったが(その他の、例えば大英帝国経由のインド人などの影響についてはなんとなく分かった)、居住区の端にはまさしくアルメニア建築に関する文献で目にしたものと同じようなアルメニア教会が建っているのだった。

このほかにもアジスアベバにはアルメニア人建築家が建てた住宅がいくつか残存しているのだが、(これは直感としか言いようがない空虚なものだが)祖国を追われたアルメニア人は恐らく建築にもある思いを込めているに違いない。恥ずかしいが言ってしまえば、建築を見たり訪れたりするときに、そうした人々の思いが込められていると想像できるところは建築の面白さの一面だと思う。
話は飛躍するのだが、そう考えてみて、今日の建築に託された思いというのは何なのかな、というのが気になった。ここでいう思いというのは、ある面やまたはある歴史では政治と置き換えてもいいかもしれないし、ただ「住み心地」なんてものに置き換えてもいいだろうし、まあ何でもいいのだが、今日、建築がただデータベース(賃料と置き換えてもいい)の上モノとして存在しているかのように思われたり、逆にモノとしてすごければいいじゃないといった風潮も含めて、なんだか混乱してしまうというか空虚な気分になってしまったのだった。
と、映画に触発されてしまった次第。

*1:wiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BA%BA%E8%99%90%E6%AE%BA

*2:そのあたりが現代的問題として捉えられそうだがここでは脇に置いておこう。