三津駅、高浜駅という兄弟駅舎
松山には路面電車の軌道が敷かれていて、この軌道のある中心市街地の辺りを、松山に暮らす人は「街」と呼ぶ。街では、漱石の『坊っちゃん』の冒頭でマッチ箱のような、と揶揄された坊っちゃん列車が復刻され、この軌道を走ってもいる。この車輌を走らせる伊予鉄道は、路面電車だけではなく、松山「市」駅を中心に放射状に伸びる三本の郊外線も持つ。その一本が高浜線である。松山の中心から三津を通り、港へと延びる路線、その終点が高浜駅だ。藩政期から松山の海の顔だった三津から、北に3、4キロほどの距離にある高浜に港が移されたのは明治20年代のことで、1892年(M25)には高浜まで鉄道が延伸された。現在でも伊予鉄道・高浜線の終点駅はこの駅である。
現在の高浜駅の駅舎は大正期に建てられたものとされる。今見るとただの古めかしい駅舎と映るのだろうが、軒に残る軒板飾りの跡や、天井にそれとなく施された意匠を目にすると、当時のこの駅に対する伊予鉄道の意気込みの加減が伝わってくるようだ。鉄道がその国の社会資本であることは言うまでもないが、19世紀末から20世紀初頭にかけてのそれは今日とはまた異なる意味を持っていたはずである。そして、それを形として近代を象徴する役割を担ったのが駅舎建築だといえるだろう。東京駅の駅舎を例に挙げるまでもない。
高浜駅を見てみると、水平に連なる窓や下見板によって得られた表情は、ちょうど二月ほど前に更地と化してしまった三津駅の駅舎ともよく似ている。三津、高浜という当時の松山の交通の要衝に、小振りで地味ながらも丁寧に造られた駅舎がある(あった)ことは、松山の近代史においても、やはり鉄道が重要な意味を担ったということだろう。
高浜駅のすぐ目の前には、松山港のひとつ、高浜港がある。そしてそのすぐ向こう側に浮かんでいるのが興居島(ごごしま)だ。そういえば、高校の頃のクラスメイトに島から通ってきている女子がいたが、彼女は毎日この港と駅を使っていたと話していた。そんなことを思い出しながら駅舎をぼうっと眺めていると、夏休みのイベントか何かだろうか、島から流れてきた舟から大勢の子どもが降り、一瞬にして駅が賑やかになった。この駅は、そんな光景を毎日繰り返し、人々を受け入れてきたのだ。
しかし、ふと思う。故郷に帰ってきて、高浜でこうした光景を見られるのも今回が最後かもしれないと。三津駅が取り壊されることになってから更地と化したのも、束の間の出来事だった。既に三津では新しい駅舎が建設されていると聞くが、折りしも今日、かつての三津駅の姿を偲ぶ人々の手で、三津駅の水葬式が行われたという。建築の取り壊しを「死」と受け止めての出来事である。
では、もうひとつの残された駅舎は、三津駅の死をどのように見ていたのか。私には、年老いた兄弟がそれぞれ間もなく亡くなっていくかのような、そうしたことが想像されてならなかった。