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開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

長谷川逸子と松山−徳丸小児科


長谷川逸子と四国松山との関係が、長谷川のデビュー以来細々と、しかし30年近くにわたって続いていることに興味を抱いている。
長谷川逸子の名前が知られるようになったきっかけのひとつに、松山に建てられた「松山・桑原の住宅」(1980年)が挙げられるだろう。この建築が長谷川に任せられるようになったのは、1979年に松山に建てられた「徳丸小児科」の施主からの紹介があったためだという。
徳丸小児科は、幾何学模様の描かれたコンクリートの壁が印象的な建物だった。道路に沿って立てられたコンクリートの壁一枚が外部との境界を形作り、コンクリート壁と建築との間に、淡い光の落ちる半屋外的な回廊が広がっていた。
しかし、この医院は今年(2008年)になって取り壊されてしまった。長谷川が事務所を設立して初めての作品*1が無くなったことを私は残念に思う。しかし現在、この医院は先代から息子へとバトンが渡され、松山市の郊外に場所を移し営業を続けている(写真)。建築も、先代の医院の時と同じく長谷川の手によるものだ。先代の医院を手がけて30年近く経ち、歯車が一世代分回った今、新たな建築が建てられ、古い建築は役目を終えたということだろうか。新たな建築には「徳丸小児科2」と名づけられている*2
「2」は見た目こそ先代の医院より軽快になったものの、ガラスのファサードと壁との間に植物が植えられ、建築と外部との間に層が設けられているところなど、なんとなく先代のデザインをおぼろげに踏襲しているようにも思える、というとこじつけだろうか。

徳丸小児科のホームページには院長からの「ごあいさつ」が掲載されている。引用し紹介したい。

徳丸小児科は私の祖父(喬・故人)が戦前より二番町(現在は三越デパート)で開業してから、父(実)が一番町に場所を移して近代小児医療を確立し、私で3代目となります。ふとしたきっかけで知り合う方々とお話しますと、「おじいさんに子供の命を助けてもらった」とか、「お父さんには子供がお世話になりました」と私が子供の頃から現在に至るまで感謝のお言葉を戴き、恐縮するばかりでした。以前徳丸小児科におかかりだったお子さんが成人され、今度は次の世代のお子さんを連れてまた徳丸小児科に受診してくださるケースもございます。この大切な信頼感の輪を私も引き継いで、父と二人三脚で地域医療のお役に立ちたいと考えています。*3

*1:1979年の事務所設立以前には「柿生の家」など小規模な建築を手がけている。

*2:長谷川逸子・建築計画工房 http://www.ihasegawa.com/

*3:引用:徳丸小児科 http://www.tokumaru-p.com/