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開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

11.29"NANSHIYON?"開催 ―岡部修三らが出演

NANSHIYON?


愛媛・松山を舞台に活動するアートNPO「カコア」主催によるアーティストトーク・交流イベント"NANSHIYON?"が11月29日(日)渋谷 WOMB LOUNGEにて開催される。

建築からは、岡部修三さん(upsetters architects主宰)が出演。建築界の中でも最年少建築家といえる岡部さんの活動をまとめて聞くことができる機会。また、建築以外の分野の「地方出身」アーティストとの、「地方」と「東京」をめぐるディスカッションが見所になりそう。



■アーティスト
オーガフミヒロ(絵描き)
後藤雅樹(彫刻家)
岡部修三(建築家)

■開催日時・プログラム
2009年11月29日(日) 14:00〜16:45予定(13:30開場)
・「アートプラットフォームえひめ」について(徳永高志/NPOカコア理事長)
・プレゼンテーション(オーガフミヒロ・後藤雅樹・岡部修三)
・ディスカッション ―アートを通じて「地方」と「東京」を考える―
・参加者プレゼンテーション・交流会

■会場
WOMB LOUNGE(ウームラウンジ)
東京都渋谷区円山町2-16 1F
www.womblounge.jp

■参加費
¥500(1drink)

詳細はこちら
http://nanshiyon.blogspot.com/
http://www.realtokyo.co.jp/events/view/29387

屋根の空間、屋根の可能性−隈研吾「根津美術館」

隈研吾根津美術館」(2009年)

Nezu Museum
日本・東洋の古美術を収蔵・展示する根津美術館。和風を思わせる渋い外観。


Nezu Museum
屋根・軒


Nezu Museum
正門からのアプローチ。軒下の空間。


Nezu Museum
アプローチの壁面には竹が並ぶ。


Nezu Museum
庭園より本館を望む。20,000坪の庭園側には瓦屋根による表情をみせる。


3年半の閉館期間を経た東京・青山の根津美術館が、10月7日に新たな装いとなって開館した。

この新・根津美術館の建築設計を行ったのは隈研吾隈研吾建築都市設計事務所)。90年代以降、日本の各地で設計活動を行い、いまや世界の各地に活動範囲を広げ、日本の建築界を牽引している建築家である。

隈は90年代、建築のオブジェクト性を否定し(=反オブジェクト)、そして「負ける」というレトリックを用いて活動を展開してきた。威圧的で、自己中心的で、ものものしい建築の否定。それは例えば「亀老山展望台」で建築を地中に消し去り、「石の美術館」では石積みの壁をルーバーという手法で軽やかに表現してみせた。

そのような隈の建築の手法を、新しい根津美術館からも見てとることができる。隈の建築を見た人の中には、アプローチの軒下の空間に立った瞬間、「GREAT (BAMBOO) WALL」や「那珂川町馬頭広重美術館」を想起する人も多いのではないだろうか。

しかしここ数年の作品において、これまであまり見られなかった建築言語が隈の建築において積極的に用いられているのが散見されるようになったように思う。それが「切妻屋根」である。切妻屋根とは屋根の頂部から両側に傾斜がかかった、本を広げたような形式の屋根のことで、根津美術館においてもこの切妻屋根が用いられている。

切妻屋根を用いた隈の近作としては「呉市音戸市民センター」が挙げられるだろう。また、昨年から今年にかけて実施された「浅草文化観光センター設計案コンペ」(最優秀作品)では、切妻屋根をもつ平屋のボリュームを積層させている。


出展:広報たいとう 平成21年(2009)1月20日(No.981)号

ここ100年くらいの建築の歴史を振り返ると、インターナショナル・スタイルは切妻屋根という形式を否定し、平坦なフラットルーフを生産し続けた。かつてル・コルビュジエが提唱した近代建築の五原則のひとつ「屋上庭園」も、屋上(屋根)が平坦であってこそのものだろうし、「自由な平面」も屋根による制約が無いからこそ成立するのだろう。

現代建築はそうしたルールにいまだに縛られ続けているのだが、近代建築史を概観すると、この屋根の復権を図る動きが何度か訪れている。1930年代にみられる帝冠様式ではコンクリートの箱の上に瓦屋根が載せられ、1970年代から見られるようになったポストモダン建築では、ポストモダン建築の代表作といえる「母の家(ロバート・ヴェンチューリ)」や「AT&Tビル(フィリップ・ジョンソン)」がそうであるように、建築の頂に切妻屋根が載せられるものが登場した*1。これら帝冠様式ポストモダン建築における「切妻屋根」は、ナショナリズムや様式性の象徴・記号として、いわば装飾として用いられてきたといえるだろう。

では、現在の「屋根」とは何か。それは再び記号として回帰し、機能しているように思われる。特に切妻屋根を伴う家型のアイコンは、建築家にとって戦略的に用いられているようだ。

しかし、現代の切妻屋根がこれまでのものと異なる点のひとつとして、「空間」に焦点があてられていることが挙げられるように思う。隈の根津美術館もその例として挙げられるだろう*2。受付を抜けると広がるホールの空間は、切妻屋根の下に広がる空間をそのまま表したような設えである。そして2階の展示室では、(美術館としては珍しいと思われるが)部屋の天井に切妻屋根の傾斜がはっきりと見て取れる。2階のラウンジからは屋根の傾斜の下に庭園の緑が広がり、言うまでも無く、軒下の空間はエントランスへのアプローチとして効果的に用いられている。

水平ではなく、傾斜を伴う空間。それを形作るものとしての屋根の可能性。隈の建築において、地場の自然素材や建材を用いながら表された地域性のようなものは、これまで「表層」として語られてきた側面があるが、それが空間に昇華されるような感覚をおぼえる。

このような傾向は、根津美術館や浅草文化観光センターでのコンペ案がそうであるように(と個人的には思うのだが)、グローバル化する/した世界の中での「日本らしさ」のようなものに接続してくるように思っている。それがかつての帝冠様式といかに異なってくるのかというと、「空間」ということになるのだろうか*3


  • 参考

根津美術館
Kengo Kuma and Associates

*1:AT&Tビルは切妻屋根というよりは、ペディメントといったほうが確か。これも西欧における伝統的な建築モチーフである。

*2:そして、そのことが象徴的に表現されたのが平田晃久の「イエノイエ」だと思う。これは切妻屋根ではないけれど。

*3:しかし、切妻屋根の住宅というのは世界各地で見られるものだ。浅草コンペ案についても発表を聞いたわけではないが、それが「平屋」であるということも重要なのだろう。

時を越えて「愛される」建築とは?―A・レーモンドの群馬音楽センター

アントニン・レーモンド「群馬音楽センター」(1961年)


Gunma Music Center
建築正面側。外観はあまりパッとしない。


Gunma Music Center
側面にまわると、鉄筋コンクリートによる折板構造がそのまま表現されているのがわかる。


Gunma Music Center
2階の開放的なホワイエ。内部にも折板構造がそのまま表れている。壁画は設計者A・レーモンド夫妻によるもの。


Gunma Music Center
ホール内観は圧巻。開放的なホワイエとの空間的対比。折板の頂部に光が当てられた照明計画。


Gunma Music Center
舞台では中学生の楽団が当日の発表の練習中。


このところ、モダニズム建築をはじめとする20世紀の建築を再評価する風潮がところどころでみられるようになった。例えば、東京駅前の東京中央郵便局の建て替えに伴う保存や再開発反対に関し議論が起こったことは記憶に新しい。
しかし、そうした建築に関する一般的な感覚というのはどのようなものなのだろうか、と思うことがよくある。東京中央郵便局については、当時の総務大臣であった鳩山邦夫が「重要文化財の価値を有する建物」と発言したことに対して、実際のところ「この建物が?」と疑問を感じた人がほとんどだったのではないか。東京中央郵便局のような純度の高いモダニズム建築はなおのこと、その価値が理解されることは難しかったのではないだろうか。

この点については既にいくつかの議論があるが、モダニズム建築はモダニズム建築であるが故に――つまりパッと見の平凡さや「なんかフツウ」な感じから、一般的な評価を受けることが難しいのだろう。むしろ、ただ古くさい建物ととられることが往々にしてあるように思う。だから私自身は、モダニズム建築の存続を訴えるならばモダニズム建築について理解してもらう必要があるし、また、その教育(教化といえるかもしれないが)も重要だろうと考えてきた。しかし、そうした働きかけをせずとも、建築が愛されながらそこにあり続けている建築があった――群馬県高崎市にある「群馬音楽センター」をを訪れて感じたのは、そんなことだった。

群馬音楽センターは、ここで述べてきたような問題を内在する「モダニズム建築」でありながら、さらには公共建築でありながら、「愛されている建築」がここにある、そんなことを思わせる建築だった。この建築について、ある書籍ではこう記されている。

これまで30件近いモダン建築を巡ってきたが、これほど"愛されているオーラ"を発している建物は初めて見た。建物の状態もいいし、何より、周囲を見わたせば、この街がこのホールを中心に整備されてきたことがよくわかる。(磯達雄・宮沢洋 『昭和モダン建築巡礼』 日経BP社, p.64)

私が感じたのもそうしたことだった。高崎の街は、高崎城址の堀の内側に建てられたこの建築を中心に、市役所や公園などが整備されている。さらには高崎駅からこの建物に向かってのびる道路も「シンフォニーロード」と名づけられている。ちょうどこの建築を中心として街が展開されているようだ。

「愛されている」と思ったのはそうした都市構造から感じられるというものだけではない。この建築がそのような「愛されているオーラ」を放つようになったのには、前述の書籍によると、高崎に「群馬交響楽団」の活動があったこと、そしてそれが映画化されたことで音楽ホール建設の機運が高まり、設立したということが背景としてあるようだ。訪れた日にたまたま中学生の吹奏楽団による演奏会が行われていたことも、私にとってそうした思いを強くする方向に働いたように思う。学生たちが大きくなったら、ふとこの建築のことを思い出すことがあるのだろう、と。

しかし現在、この建築も例に漏れず、建て替えの話が検討されているようだ。1961年竣工だから築50年近く経つことになる。建物の躯体にはさほど問題は無いのだろうが、音楽に限らず様々な演目に対応することを考えると、恐らく設備などの不都合は生じるはずである。

私自身はといえば、この建築が失われるなら残念に思う。しかし、高崎や群馬の人々によってどんどん議論がなされればいいとも思っている。当たり前のようにそこにある建築や風景の価値は、失うことを目の当たりにすることによってしか想像力が働かないものなのだろうし、議論を経ることで、この建築や街について理解を深める契機になることと思うからだ。


  • 参考

「建替」か「改修」か(高崎市)
群馬音楽センターを愛する会」設立について
高崎新聞 > コラム&オピニオン より
群馬音楽センター(オフィシャル)

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