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開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

過防備都市

五十嵐太郎『過防備都市』を読む。ついに、こういう本が世に出てしまった(良い悪いという意味でなく、現代を象徴する出来事、という意味で)。本書ではセキュリティを過剰に求める社会の現状が淡々と論じられる。シェルターからスキャナーへ、という指摘は面白い。要塞としての建築から、誰もが匿名でいられないような時代へ移行している。監視カメラ、自警団…セキュリティが過剰に求められる現状を、著者は憂う。

ところで、うちの近くに立面がガラス張りのなかなかいいデザインの郵便局がある。透明性のある「開く」デザインである。近年、ゆうちょや銀行のATMを破壊し窃盗、という事件を多く見聞きするが、この郵便局も例外ではなく、被害にあったことがあるようだ。(参考:http://compress.sfc.keio.ac.jp/clip/news02070301.html
ガラス張りのなかなかおしゃれな郵便局、という認識だったが、この事件を知り「ガラスはまずいのかなぁ」とあらためて思い知らされた感じ。
しかしこれはガラスの使いどころを間違えた、とはいえないだろうか?この周辺には何も無く、まさに田舎。しかし、この郵便局が人目につきやすいところ、つまり都市にあったならば、被害を被ることはなかったのだろうか。
この問題を考えると、「小学校を開くか、閉じるか」という議論を思い出す。大阪の池田小学校での殺傷事件はまだ記憶に新しいが、この事件後に起こった議論がそれだ。「安全」のために「門を閉ざし、部外者を入れない」(シェルター)というのがひとつ。そして、福岡の博多小学校よろしく「門を開き、至る所に監視の目をおく」(スキャナー)というのがもうひとつである。
このどちらが有効であるかは難しいところだが、防犯上の観点からすれば、この郵便局の建築は後者である。建築が可視性をもつことは防犯上有効だと私は思うが、この郵便局での事件が示すのは、誰にも見られていないところで開いても仕方ない、ということではないか。開く・閉じるという議論は、都市かどうか、といった地理的な要因も考慮する必要があるのではないだろうか。