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開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

日本橋の景観について

良い景観、とは何か。よく分からないでいる。
ずっと答えが出せないまま保留してきた問いだが、先日、日本橋の上を走る首都高の撤去に「首相の一声」が発動されたことをきっかけに、今考えていることや、現時点での何らかの意見をまとめておこうと思う。後でゆっくり考えようと思っても、その場で考え表出しないと、後々になっても考えないことのほうが多いわけだし。

で、景観である。まず今のところの自分の立場を表明しておくと、私は五十嵐太郎さんの雑誌論文「景観を笑う」(新建築2004年12月号)の意見におおむね賛成できる。すなわち、日本橋を例に挙げて端的にいえば、首都高の撤去(あるいは地下化)に対して反対だという立場だ。
なぜか。現時点では、良い景観、というもの(とそれをとりまく政策など)に何かうまく言い表しがたい気持ち悪さをおぼえるから、といっておこう。そして「おおむね賛成」と煮え切らないのは、全面的に反対というわけでもなく、地下化はもうちょっと保留して考えてみようよ、というような考えからきている。
そもそも、このような景観の話題に違和感をおぼえるようになったきっかけは、東京キャナルというプロジェクトのプログラムのひとつであった、一昨年(もう「一昨年」か)のシンポジウムでの小嶋一浩さんの発言にある。

小嶋氏:近代の川や水に対する扱いは押さえ込みであった。現在はこれをどう扱うか、使っていくかにシフトしている。押さえ込んだり使い尽くしたりしたのが首都高である。現在は築40年、まだ壊してはいけない。
*1

この話を聞くまで、私は、首都高壊しちゃえよ!という立場をほぼ全面的に支持していたように思う。でも聞いていて気付いたのは、そう言われると、首都高ができてまだ40年なんだよな、ということである。今からすれば、当時行われた建設計画は誤りだったのかもしれない。でも、今日のスクラップアンドビルドを否定する風潮(不動産的立場ではなく、環境とか<景観>とかそういう類からの)からしても、この「撤去」はなんだか変だ、と思ったわけだ。

その違和感についてもう少し記しておこう。
はっきり言えば、私が気持ち悪さをおぼえるのは、景観を<経済を活性化させる策>として捉えているように思われてならない点にある。思われる、というかそういう意見が多く見られるのも事実だ。
「首都高の撤去」という、首相のお墨付きを受けた主張の背景にある意思は、(首都高建設当時の時代背景や空気というものをちゃんと知らないので偉そうにいえたものではないが)これら首都高を作ったときにあった経済優先、みたいな考えと同じようなものなんじゃないかと思われてならないのである。つまりこれって、同じこと繰り返しているんじゃないかという違和感だ。むしろ、現在の方が景観を盾にしている分ある種のいかがわしさが見え隠れする。
もちろん、経済が活性化するのは良いことだ。それを否定しているわけではない。だけど、かつてそうやってきて他の様々な事を(それこそ「景観」を)考慮しなかったことから今日の問題が表出しているしていることを考えると、日本橋、ひいては今日の景観に関する取り組みのいくらかが、かつてと同じようにまた何か将来に影を落としそうだという漠然とした不安があるのである。

まあ、いろんな可能性との関係を「経済*2」的な観点から切り落としているように思えるところになんだか信仰性を帯びているような気がしてならないのである。

とまあここでは現段階での意見を記しておいて、今後も気に留めて考えていきたい問題である。むしろまだいろいろと迷っていて、みなさんの聡明なるご意見をお聞きしたいところです。立場の相違もあるだろうし。

ブックマークしてたasahi.comが消えてたのでyahooニュースを載せておこう。

*1:東京キャナルプロジェクト・8月27日シンポジウムリポート「WATER CITY、都市東京の再生へ」http://www.tokyo-canal.org/index.cgi?mode=ws_shinpo

*2:というかこの言葉が正しいのかどうか正直わからん。