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開発業者勤務(東京・仙台) → 四国松山へUターン。建築・都市・街・不動産・観光などに関するメモ。

TOD'S 表参道の「強度」―表層建築と建築家の領域


「表層建築」についてまとめておこう。
'90年代末から流行っている表層建築、その流行は建築家にとっては不運であると捉えたほうがいい、と私は思う。
商業主義という流れの中で、建築家の領域を「建築」ではなく表層のみに限定されたといえるからだ。商業建築の内部はインテリアデザイナーの領域であり、永い使用に耐えうる可変性を持たせるという意味でも、建築家に干渉されたくない領域となってしまった。すなわち、建築家に求められているのが総体としての<建築>なのではなく表層のデザインなのであり、うわべだけのデザインなのだといえるだろう。
確かに、建築家が凝ってつくりあげた内部空間は、小売などの商売に使うには不向きであり、テナントやインテリアの変化に耐えられるデザインでない。それならば普通に柱梁と床だけで建築をつくってしまえばいいわけで、このような背景から、今日生み出される商業建築は建築家の内部空間への不干渉を前提にしているのである(そうした観点からすれば、青木淳さんによる表参道のヴィトンは恵まれているともいえる)。
そのような状況を逆手に取り、表層だけで建築を―あるいは構造体を成立させようとしたのが伊東豊雄さんのトッズであり、近作の「銀座 ミキモト2」であるのだろう。トッズでは内部空間も伊東さんの手でデザインされているが、これらの建築は、表層建築としてひとくくりにされる枠組みから一歩進んだ建築ということができる。
この建築について考えるにあたって、例えば同じ伊東さんの「サーペンタイン・ギャラリー・パビリオン」(→参考)の流れを考えるといい。サーペンタインも、構造体としてのスキンだけの建築だということができるし、自明であるように内部空間は自由である。誇張を含むいいかたではあるが、ドミノシステム、あるいは柱と床という要素さえあれば超高層のオフィスビルができるように、スキンだけで成立しうる建築である点にこそ、これらの建築の強度があるわけだ。
しかし、それでもこのような試みに限界があるとすれば、それが「柱と梁」のような普遍性を獲得することができない点にあるのだろう。そのような意味で、トッズはまた建築家による建築の限界性を示してもいる。トッズが世に(建築界に)出たときにその評価を得たのは確かだろうが、銀座のミキモトを見て二番煎じだと感じた方もまた多いのではないだろうか。たとえ、ミキモトが優れた建築であるとしても。つまり、建築家による建築の一回性、言い換えれば作品性こそが、逆説的に建築の強度の限界性を呈しているともいえる。同じように試みたであろうせんだいメディアテーク(→参考)のチューブという概念にしても、それと同じものが再び世に生まれないのは同じような構造の元にあるはずだ。
伊東さんは次のようにも記している。
「われわれがつくり上げた<せんだいメディアテーク>の空間は、再び<メディアテーク>の建築型を先送りしたのかもしれない。しかし私にとってはこの先送りこそが、つまり永久に「アンダー・コンストラクション」であることこそが、この建築の最大の意味ではないかと考えるのである。<アーキタイプ>のない建築、それは私にとって「理想の建築」なのである。」
本稿の意味とのズレはあるだろうが、伊東さんはこうした状況を楽しんでいるようにも思える*1

*1:そしてこうした状況をまた別の意味で楽しんでいる(?)のが青木淳さんなんだろうと思う。ちょっとまとまらないので、またどっかで書くかも。